Interview 008

2023/1/31

国立環境研究所
五箇 公一 さん
GOKA Koichi
国立環境研究所
五箇 公一さん
GOKA Koichi
生物多様性は、
人間社会の存続に直結する問題
岡本

五箇先生、本日はどうぞよろしくお願いします。今日は楽しみにしております。
まずですね、五箇先生の簡単な自己紹介をしていただけるとありがたいです。

五箇

はい。国立環境研究所に勤務しております、五箇と申します。

専門は保全生態学ということで、今現在こちらの研究所で生物多様性の保全に関する研究プロジェクトに取り組んでいるのですが、その中でも、特に生態リスクと言って、生き物の世界と人間の社会の関わりの中で生じるいろいろなリスク、具体的に言うと、最近ですと“ヒアリ”みたいな非常に毒性の強いアリが問題になっていますけれども、そういった侵略的外来種の対策であったり、あるいは、最近では、ネオニコチノイド農薬がハチなどの野生昆虫を減らしてしいる可能性が指摘され、問題になっていますが、そういった化学農薬のリスク対策を考えたりしています。

他にも、今、新型コロナも非常に話題になっていますが、野生生物由来の感染症の問題ですね。このような新しい感染症とは、今どんどん自然界から出てきていて、人間と生物多様性のインタラクションの変化が、大きく影響しているということもあるので、生物多様性を管理することが、感染症管理に対してどれだけ重要かということを科学的に分析するという研究も進めています。以上のように、人間と生き物が関わる中で、人間社会に出てくるリスク、あるいは野生生物世界に起こるリスク、そういった環境問題について研究して対策に取り組むことが、今の私の研究テーマになっています。

岡本

ありがとうございます。
今のお話に出てきた「生物多様性」というワードは、最近では、ずいぶん社会にも浸透してきたように思うのですが、一般的に思われている生物多様性は、グローバル化が進んで、人とモノが移動する中で持ち込まれるもの、例えばさきほどの“ヒアリ”もそうだと思うんですけれど、個別外来生物とその生態系の影響、人間への被害だけような、なんとなく表面的な認識に過ぎない感覚もあります。

ただ、以前から五箇さんのお話を伺っていると、生物多様性って、実はめちゃくちゃ難しいんだよとおっしゃっていて、そういう感覚を世の中に周知させていくのは非常に難しいと思うんですが、その辺りのご苦労はありますか?

五箇

「生物多様性の主流化」は、日本における生物多様性国家戦略においても、非常に大きな課題とされていて、要は、生物多様性という概念をいかにメジャーにして、その重要性を知っていただくかということが目標となります。しかし、この目標がなかなかにハードルが高かったりする。

実は、生物多様性という存在は、あって当たり前、つまり必然であり、生き物というものは多様であるが故に、生物の世界は維持ができている、進化というものがあるから、生き物というものはこの地球上でずっと持続しているわけです。

環境は常に変動していて、そういった環境というものに対して適応していくという形で、生き物はどんどん進化して、また新たなる生物種が生み出される。その一方で環境に適応できなかった種は滅んでいく。この絶滅と進化の繰り返しで、多様性が維持されていて、かつ、次の進化のシードが多様性に包含されている。多様でなかったら、もう進化ができないわけですから、多様であることが前提条件となって、この生き物の世界が維持される。つまり多様性は、生き物がこの地球で生きていく上での大原則で、当たり前すぎるものなんですよね。人間自身も生き物として、この地球で、当たり前の中で生きてきた中で、その重要性を認知しましょうと言っても、その必然性がちょっと見えにくいと言えるのかもしれません。

一方で、人間社会はどんどん都市化が進み、農村部から都市部、人工的な世界に遷移して、そこに人間が集中する中で、生き物の世界とはすごく疎遠になってしまっているから、一層、生き物との接点が失われて、生物多様性というものを身近に感じることが難しくなっているんだと思われます。

そういう意味で、生物多様性の主流化を保全の必要性から説明してもなかなかピンとこないだろうと思うんですね。そこで考えたのは、逆に、生物多様性に手を加えたり、あるいは生物多様性がなくなる、劣化するとどんなことが起こるか、そこで生じるリスクにフォーカスをあてたらいいのではないかと。自分の生命や自分たちの生活にふりかかる危険であれば、みんな誰しもが必死になって聞くだろうし、知ろうとするだろうと思いつき、僕としては、“生態リスク”といったところを切り口に生物多様性を語るというのが人を惹きつける上では一番効果があるよねということで、今の研究テーマに行き着いたわけです。

やはり人間って、怖いことが身近に起こらないと、なかなか問題には目を向けなくて、温暖化がある意味すごく分かりやすいのは、現実に気温が上がってきていて暑く感じるし、異常気象というものも増えてきていて、これはもう本当に、生活および社会という部分に対して大きな打撃を与えているという実感があるので、もちろん全ての異常が温暖化で説明をつける、乱暴に言っていいというわけではないけれど、大きな台風が来たり大雪が降ったりしたときに、やはり温暖化の影響か、と言えば、みんなやばいなと思うわけでしょ。そこは、ダイレクトに肌身で感じられるリスクというのがあるから、温暖化はすごく分かりやすいキーワードになるし、対策パラメータのひとつがCO2濃度の抑制という分かりやすさと同時に、世界中が、工業とか通商とか農業などあらゆる産業活動が排出源として直結するから、当然、そこに対していろいろな規制がかかって、経済産業という部分に大きな影響が出るという意味では、国としても企業としても、絶対になんとかしなきゃと、下手すれば損をするぞと、今から絶対に本気で向き合って、対策をアップデートしておかないと遅れをとるぞという感覚で、COPなんかも非常に注目されるわけですよね。COP自体も、人はたくさん集まるし、お金も動くし、マスコミも騒いでくれるしという活況が温暖化では見られるけれど、生物多様性の保全には明確な政治・産業との関係性の見える化ができていないから、そこは戦略としてはミスだったかな…。

行政にしてもメディアにしても、生物多様性の説明として、生き物はかわいいし、愛らしいし、美しいものである、希少種とか絶滅危惧種も、絶滅寸前だから助けてあげなきゃというような、人間側が生物種を保護する、保全するというスタンスを入り口にしている傾向が強かったと個人的には感じていて。でも、いやいやそんな説明は響かないから、人間はそんなに生き物好きばかりじゃないですから、と思うわけ。そう考えると、やはりリスクを明示する方が、生き物の好き嫌い関係なく、みんなが危機感を持ってくれる入り口になるだろうと。外来種であれば、ヒアリなんて端的に分かりやすい。子どもが刺されたらどうしようとか、刺されたら死んじゃうかもしれないとか、身の上にふりかかる危機として捉えられる。そういうリスクがあれば、みんな一斉にそこに目を向けるわけだから、生物多様性を主流化するという目的に対して、少し戦略を変えた方がいいんじゃないかと思いながら研究してます。

でも一度、研究所内でコロナ前にセミナー開いて、生物多様性を撹乱し続ければ、いつか感染症問題のような世界的な危機が起こるぞという予告をしたこともあったんだけれど、聴いていた職員のなかから「そんな怖い話は子どもたちには聞かせられませんからやめてほしい」とか意見が出たりして(笑)、いやいや、こういう話こそ子供たちにちゃんと聞かせなきゃダメなんだよと思ったことがありましたね。多くの人の生き物の世界への捉え方は、少しメルヘンな部分があるのかなと。人と動物はわかりあえる、生物は美しい、そう思いたいのも分かるけれど、生物学者から見たら、生物多様性とそれが作り出す生態系なんて、そんな甘美な世界じゃない。みんなお互いに資源の争奪戦を繰り広げている熾烈な世界が本当の生物界。生物多様性というのはもう本当に、何というか、仁義なき戦いの場ですよね。自分の遺伝子を大量に残すということが、生物個体の生命活動の一つの根源であって、そのためには、少しでも多くの資源を自らが獲得しなければならなくて、これが生きる上での究極課題になってくれば、必然的に、同じ種であろうが別の種であろうが関係なく個体間で競争は起こるし、足を引っ張り合う。この資源争奪の張力で、バランスが保たれている。それが生態系なんですよ。まさに生き馬の目を抜くような熾烈な世界なんですよ、本当は。鎌倉殿の13人みたいな、ちょっと油断したら切られるみたいな、そういう世界の中で、多様な遺伝子や個体がバランスを維持している。よくメディアなんかだと、生き物同士は競争するだけでなく、助け合って生きているケースもある、という文脈で、共生関係のはなしなんかもよく持ち出すけれど、例えば、お花と訪花性昆虫の関係とか。でも、実は、この花と昆虫の関係にしても、最初は昆虫が略奪者であり、やたらと植物を食い、かじりまくるから、植物がいいかげんにしろよと、だったら昆虫をだまして、逆に花粉を運ばせた方がいいんじゃないかと戦略を変えて、甘い蜜で誘き寄せて花粉を運ばせるという、そういった植物側の利用戦略というものが働いて、うまく共生に持っていっている。共生に至るまでには、必然的に、お互いに資源確保の競争関係があった中で、最終的に妥協点に到達しているのです。

生態系システムでは、増えすぎて生態系のバランスを崩すような種や個体群をコントロールするようにできているが、今、この地球環境で増えすぎて、バランスを崩している生物種は、私たち人間。

五箇

今問題になっているウイルスなんかも、同じように自然界では共生関係がある。
ウイルスとしてみれば、少しでも多くのエネルギーを取って、自分を増やさなければとなるのだけれど、あまりにやり過ぎれば、当然、宿主も死んでしまって、ウイルス自らの住処を失うことになる。あるいは宿主も生き残ったら生き残ったで、どんどん免疫や抵抗力を進化させてウイルスを攻撃してきて、ウイルスも負けじと感染力をあげてくる。お互いがもう戦争状態になる。この「軍拡競争」の共進化がずっと続くと、限界がくるわけで、お互いに進化による新しい形質の獲得にコストがかかりすぎる、これはもうダメだとなった時に、じゃあウイルス側が弱毒化するから、宿主の方もちょっと免疫を落としてくださいみたいな妥協点がおのずと淘汰されてくると。そこで共生関係が生まれて、自然宿主という中で、ウイルスは割とおとなしくキープされるという関係が満たされる。だから多くの野生動物の中には、ウイルスがうじゃうじゃいて、共生関係を保ちながら生きている。

でも、ひと度、そういった動物世界の中で、何か一つの種が異常に増えるというバランスを崩すような事態が起これば、それは食わなければもったいない資源となるわけで、ウイルスがその種に感染する能力(形質)を進化させて、ガッとエネルギーを吸い取りまくれば、そこで発症、病気が起こると。結果、その増えすぎた種は数を減らして調節され、最終的には免疫=抵抗性を進化させた個体が生き残る。つまり病原体ウイルスは生態系においては天敵の役割をしてくれていることになる。だから、ウイルスたちも、それはもう虎視眈々と、生態系の中でいつ、どこで、また増えすぎて、免疫が弱い奴が出てこないかと見張っているわけですよね。(注意:ウイルスには当然意志も意識もなく、ずっと遺伝情報の偶然のコピーミスによる進化の試行錯誤を繰り返している中で、たまたま増えすぎた種や集団に適応した系統が生まれたときに感染爆発が起きる。)それが今、人間社会というものがあって、人間がこれだけワサワサいて、自然界にズカズカ入ってきている中で、ウイルスから見たら、これは食わなきゃ損じゃないかということで、人型に進化した系統が、人間という「えさ」が食い放題だと一気にやってくる、これが感染症という問題のメカニズムです。

だから、実は、生物多様性や生物進化という切り口で見ると、感染症の問題は実に理解しやすくなるし、感染症の問題が起こる背景に、実は、人間と生き物たちの付き合い方の狂いがあるということを知れば、ああ、やっぱり生き物の世界を大事にしなきゃという帰結にもたどり着きやすくなる。そういうちょっと怖い話をしていくというのが今の自身の戦略なのだけど、この戦略でのお話は、特に生物好きな人ほど嫌がる傾向があるかな(笑)。やはり、生き物は愛すべきものだと思いたいところがあるみたいで、うちの研究所でも、特にこの研究成果はあまり喜ばれていない気がする(笑)。あまり好ましくないなというか、見たくないなと思ってるんじゃない?

例えば、以前、農薬のリスク評価を始めた時も、所内では農薬のことを“毒”と表現する人もいたからね。いやいや、毒とか、いかにも危ないものみたいにいうけど、逆に世の中、自然界の中にも毒物質はたくさんあって、どんな生き物でも毒を持っていて、そういうものに対して、みんな適応して生きているわけであって、植物を食べたことのないような生き物が植物を食べれば死にますよっていう世界ですからね。もちろん農薬は、人間が作ったものであって自然界にはないものだけれど、
一方で、この温帯モンスーンの島国で農薬使わずに農業ができるかといえば、そう簡単にはいかないですよね。もちろん、できないこともない。箱庭程度の自家菜園で、もう四六時中、草むしりをして虫を取っていれば、それはOKだろうけれど、それをずっとできますか?という話ですよね。
農業なんてまさにお天道様相手の産業で、環境は常に安定しているわけではなくて、日照りが続くことがあれば、長雨が降ったり、害虫が大発生したりで、その年の収穫が0になるかもしれないという不安定性・不確実性があるから、そう考えたときに、やはりある程度は処方箋が必要だろうということで、農薬というものがあるわけです。
確かに、今は農薬の使い方が荒すぎて、そこが問題であるのは認めるけれど、農薬なしでできるほど農業は甘くないというのは、農業をやったことのある人でなければわからないと思う。

農薬の問題を突き詰めていくと、特にこの日本においては、農業人口がどんどん減っていて、1960年代と比較しても半分以下ぐらいまで落ちているわけだし、農業従事者の平均年齢も今70歳近くまできている中で、農薬なしでなんてそれは無理難題に決まっているでしょうと。都市部のエアコン付きの家に住んで農業と無縁のホワイトカラーの仕事をしながら、でも無農薬の安全なご飯を食べたいだなんて、それはちょっと虫がよすぎるんじゃないかと。本当に安心・安全な食を確保したければ、自分で農業やるしかなんじゃないか、という話ですよね。

僕がよく言うのは、「毒を食らわば皿まで」で、泥で手を汚して畑仕事したくないなら、それはもう農家さんたちがつくってくれたものを、たとえ農薬が使用されたとしてもありがたくいただくのが筋でしょうと。そのあたりは、日本の農業生産と消費者の関係性が随分歪んでしまっていることが、農薬の問題に繋がっていると考えなければいけなくて、ネオニコチノイド農薬は生態学的に問題がある薬剤だとしても、特に日本のような高齢化した農業生産現場に於いてはなくてはならないものにもなっているんです。
ネオニコチノイド農薬は「浸透移行性」という、植物の根から吸収されて、植物体内に移行して蓄積する性質があります。この性質を利用して、水田の場合、箱苗処理といって、イネの苗を箱で栽培している段階で粒剤を撒いて、苗に薬剤を吸収させて、それを田植えすることで、稲の植物体はワクチンを打ったような状態になるので、以降、殺虫剤を散布しなくて良くなる、という栽培法が採られる。農家さんたちにとっては、夏の暑い日に薬液を散布するという重労働から解放されて省力化という面でこの薬に大いに助けられている。特に農業従事者の高齢化がすすむ現代においてはこの薬剤はなくてはならないアイテムになっている、という話なんです。
実際、ネオニコチノイド農薬は日本国内でも需要が高かった。この薬剤があるから農業が続けられる、という農家も少なくなく、ある意味もう必須というか、ニーズがあったわけですよ。そういうことも考えれば、なおのこと農薬がもたらすリスクというのはちゃんと見せる化して、正しく農薬を使うためには現状の農薬管理システムでは十分でないこともちゃんと示す必要がある。
アメリカ産のオオミジンコで試験をしたって日本のトンボは守れませんということは明らかにしつつも、一方で、そういう生態リスクの高い農薬を使わなければならない日本の農業生産の窮状や危機というものにまずは目を向けなくてはならないのではないか?ということも突き詰めなければいけないわけですよ。

特に、今は、コロナ禍やウクライナ紛争という世界的混迷が重なり、食糧需給にも危機的状況が迫っており、今、国内ではまだみんな安穏としているけれど、これもあと数年もしないうちに状況が激変するかもしれない。
中国が、経済大国へと変遷し、大農業生産国だったはずなのに、今は農産物消費大国になっている中で、このウクライナ紛争で、一気に小麦やトウモロコシの国際的な供給体制に異変が生じ、今後、ブラジルからの輸入がさまざまな先進国にとって頼みの綱になると推測されている。
これに伴う環境リスクとして、まずブラジルでは、農地拡大を口実にアマゾンの伐採が加速し、生物多様性および温室効果ガスの吸収源の劣化が進む恐れがあること、加えて、生産量を上げるために危険な農薬を大量に使用することによる環境汚染と健康被害が増大すること、が懸念されます。当然、農作物の輸出に伴って、害虫や病害もたくさん移送される恐れが生じます。
そうなった時に、日本は、残留農薬の基準が厳しく、害虫の検疫も厳しいので、ブラジル政府からしてみれば、たいして量も買ってくれないくせにやたらと農作物の貿易のハードルが高い、実に面倒臭い、旨味の少ない貿易相手国とみなされて、だったら、検疫に関するハードルも低くて、大量に買ってくれる中国に全部送ろうという話にもなる。そうなったら日本がいくらお金を出してももう農作物が輸入できなくなってしまうという事態にもなりかねない。
だから、食糧安全保障という観点に立ったら、安穏と、農薬が嫌だなんて言っている場合じゃないぞと、いう危機感も持っておかないといけない。温暖化や生物多様性劣化という環境問題が差し迫る中、実はもう、今、我々は、この日本国家における安全保障が脅かされつつあるんだということを考えなければいけない。
環境と政治と経済が複雑に絡み合った現状を一つ一つ紐解いて対策を教えていかなければいけないのです。生き物がかわいいとか、かわいそうなんてメンタルなことだけ言って済まされる状況ではないんだと。

2020年、オガサワラシジミという小笠原固有の蝶が絶滅してしまったことが環境省から報道発表され、当時の大臣からもこの絶滅は何を意味するのか、どう思うか?と相談されたことがありました。固有種を失ってしまったことは貴重な日本の生物多様性の喪失を意味することではあるけれど、実際、日本本土から遠く離れた小さな海洋島に生息する蝶が1種絶滅したからといって我々の生活に明日にも異変が生じるなんてことはないわけで、多くの人からみれば「残念だけど、仕方ないよね」ぐらいにしか感じないだろうし、地球全体、世界全体の問題から見たら大した問題ではない、という捉え方がされても仕方がない。
でも、オガサワラシジミの絶滅から考えるべきことは、そんな離れ島の蝶の一種も守れないということは、これから日本全体、アジア全体、あるいは世界全体の生物多様性を保全するということなんて、もっと困難なことだと、それくらい、人間にとっては生き物を守るという能力はまだ足りないんだということの象徴だと捉える必要があるんだと思うのです。
だから、蝶がいなくなってかわいそうという話で終わらせちゃいけないんだと思うのです。確実に、我々には生物多様性を保全するという能力が十分には備わっていないということを、希少種の絶滅を通して理解するべきだと。

生物多様性自体は劣化しているとはいっても、バイオマス自体は減っているわけではなく、人間にとって都合の良い生物種が減り続けているのだと思います。
例えば、蝶とかトンボとかハチみたいに、害虫を食べてくれたり、花粉を運んでくれたりする、人間社会にとって有用で重要な昆虫類が急速に減少していることが指摘されています。
一方で、逆に増えている虫もいて、それがヒアリだったり、ゴキブリだったり、蚊とかハエとかで、これら人間にとっては不都合な害虫種は身近な環境で着々と増えていく。哺乳類でもクマネズミとかアライグマとかもね。
人間にとっては不都合な生き物ばかりが、人間が改変した環境に適応して、どんどん増えていく。そう捉えれば、この地球環境悪化の時代にも生物多様性の遷移はちゃんと進んでいる。実にタフなシステムだと言えます。

さらに生態系システムは、環境の変化に応じて進化してバランスを維持しており、異常に増えて生態系のバランスを崩すような種や個体群が発生すれば、コントロールするようにできている。いわゆるレジリエンス機能ですね。そういう集団には天敵が進化してくる。では、今、この地球環境で増えすぎて、バランスを崩している生物種は何かというと、それは私たち人間ということになります。80億人という巨大なバイオマスでありながら、生態系の頂点に立ち、自然界から資源を吸収しまくり、それでいて自分たちは全く何にも食われずに、野生動物から比較すれば極めて死亡率が低く、しかも、多くの人は死ねば屍は灰と化して、墓に入ってしまうわけだから、自然界に戻る資源量は僅少、というまさに地球環境のパラサイト的な存在になっている。
でも、そんな人間集団にもちゃんと天敵が進化してくる。そんなにいっぱいいるのなら食わなければ損だろうと。そこで登場したのが新興感染症ウイルスたちです。
ウイルスたちからすれば人間集団は格好の餌です。ろくに免疫を持っていないのに、ものすごく栄養蓄えているし、しかも密集しているから伝染もしやすい。これはラッキーだぞって、次々と野生動物の世界から人型に進化したウイルスたちが襲来してくる。
新型コロナが流行するのも自然の摂理であり、必然だったとも言えるわけです。
(注釈:上記比喩的に表現していますが、ウイルスには意志も意識もありません。ウイルス自体は野生動物集団の中で常にランダムに遺伝情報(RNAやDNAの塩基配列)が変化し、進化を繰り返しており、その中でたまたま新しい宿主に適応した遺伝子タイプのもの出てきたら、宿主転換して広がる、という循環を繰り返している。)

そう考えると、これ以上、生態系や生物多様性に負荷を与え続ける社会・経済構造や生活スタイルを改めて、口先だけではなく、本気で具体に持続的社会へと変換していかないと、人間社会が生き物の世界からの逆襲に遭って、最後は負けてしまうという危機意識を持つ必要がある。
結果的に、生き物の世界の異変というのは、気候変動の問題であったりとか、あるいは廃棄物汚染の問題にもつながっていて、そうした環境の劣化が進行すれば、一番まずい状況に立たされるのは人間社会だということを知らなければいけない。
今の気候変動の問題にしても、廃棄物汚染の問題にしても、生物多様性の問題にしても、その対策の真の意義は、実は、生き物を守るとか環境を守るとかそんな綺麗事ではなくて、人間が生き残るために必要な行動だと捉える必要があります。


(イラスト説明)自然生態系では、各生物種が利用・消費できる資源量に応じて、そのバイオマス(生物量)が制限されており、ピラミッド構造が形成されることで安定した循環システムが維持される(上)。しかし、人間は化石燃料を利用してエネルギー補填および生活物資の生産を行い、巨大なバイオマスとして生態系の頂点に君臨することで生態系のバランスを崩し、様々な地球環境問題を引き起こしている。その結果、密度超過となっている人間集団に対して天敵として新興感染症ウイルスが進化してくることとなる(下)。
(原図出典:国立環境研究所「ここが知りたい温暖化」)

五箇

生物界全体からみたら、人間がいるかいないかはどうでもよくて、別に人間に守ってもらう筋合いもなくて、絶滅しようが何しようが、生き物は絶対的に、最後は勝つようにできいてるわけだからね。過去に全球凍結しようが、巨大隕石が衝突しようが、どんなに悲惨な大絶滅を経ても生き物は確実にまた多様性を復活させてきたんですよ。
環境が変わるというのはむしろチャンスで、新しい環境できれば、新しい種が誕生する機会にもなるという部分では、生き物はずっとそれで流転して生きてきているわけだから、人間ごときがどうこうしたところで、この生き物の世界の流れ自体はびくともしないですよ。我々人間は、まず、そこを知るべきだよね。
だから、生物多様性が大変だと、いうけれど、何が大変かというと、実は、人間社会がヤバくなるということの大変さであって、シロクマがいなくなっちゃうのが大変とか、オガサワラシジミがいなくなって大変ということではなくて、希少種が簡単に滅ぶような環境が続くと、人間社会の存続が絶対にやばいぞっていうこと考えなくてはいけないのです。

コロナ禍やウクライナの問題を通して言われるのは、
成長することだけが勝ち組ではないということ。
生き物の世界では、持続性を持つものが、むしろ勝ち組なんです。

岡本

生物多様性って、僕も五箇さんにお会いするまで、本当に表面上の薄っぺらいものだったんです。でも、五箇さんのお話を伺って、そんな簡単じゃないよということにすごくハッとさせられたんですけれど、結果的に社会全体のフレームを変えなくてはということなんですよね。
それこそ、同じ環境研の江守さんからお話を伺ったときも、地球温暖化の対策として、個人のちょっとした省エネとか、食べきれないものをドギーバッグに入れて持って帰るとか、そういうレベルではなく、社会全体でシステムを大きく変えなくてはいけないという話があったんですよね。

五箇

そう、かなり、本当に大掛かりなシステム変動がないとなかなか先には進めないという部分で、このコロナ禍やウクライナの問題を通してよく言われることは、脱・旧態依然でないとだめだと。これまでの成長戦略がこのまま続く、この波さえ乗り切ればまだ続けられるというのは甘い幻想で、砂上の楼閣だと。
なぜ生き物の世界がここまで40億年も続いているかというと、常に環境の変動に対して適応して進化しているという彼らの生き残り戦略というかね、戦略というと、いかにも意図的にやっているようだけれど、これも偶然の帰結で、とりあえず、DNAとかRNAが勝手にどんどん変異して、大半がその環境では無駄だからと捨てられて死んでしまう、あるいは箸にも棒にもかからず、とりあえず遺伝子の中でジャンクとしてストックされる、という繰り返しの中で、そういう変異は、DNAやRNAのコピーミスとして自動的に出てきてしまうものなんだけど、そうこうしているうちに、環境がガラッと変わった時に、そのエラーコピーのはずのものがエラーじゃなくなって、逆に今までのスタンダードの遺伝情報がエラーになってしまうという、そういったシフトが起こる。この「形成逆転」が進化につながる。だから新しい変異や形質は本当に偶然の産物に過ぎないわけです。
生物はこの偶然の繰り返しを続けることで進化し、その歴史が途絶えることなくずっと繋がっているのです。

しかし、人間だけは、この地球上で、たかだか数万年ぐらいしか生きていないけれど、非常に困ったことに、頭が良くなっちゃったものだから、自分の周りの環境を自分達の都合にわせて変えることで、生きながらえてきてるものだから、人間自体は何も進化していないんですよ。むしろどんどん劣化してしまっている。体毛は抜け、免疫はどんどん落ちているような状況で、今、人間をまる裸にしてジャングルに放り込んだら、たぶん20分ももたないですよね。何かに食われるか、病気になるかで死んでしまう、実に脆弱な生物なのです。二足歩行の頭でっかちな変な体型で、走る能力や腕力、視力など何から何まで、動物学的能力は、あらゆる野生動物に劣っている。これほど動物的能力の弱い種のままでここまで生き続けてきたので、環境変動には極めて脆弱です。
だから、今みたいに、生物多様性が劣化し、廃棄物で地球が埋もれ、温暖化で暑くなるというような状況の中で、一番に生命の危機を迎えるのは多分人間自身であり、その生活圏である人間社会を持続させることも難しくなるであろうということなんですね。

そういうことを考えると、今の状況で、世界がつながりつづけ、市場が成長し続けるこれまで通りの資本主義経済の成長戦略をとり続けることには、もはや限界があると考えなければいけない。でも、この思考変換を、後ろ向きと捉える傾向も結構少なくない。どうしても明治開国以降は、どんどん生産力をアップさせて国際競争に勝たなければダメだという、グローバルスタンダードな、ある意味画一的な思考回路でみんながここまで働き続けてきて、コロナの間でもずっとこのままだとグローバル化に乗り遅れちゃうみたいなことが言われてきた。でも、乗り遅れるも何も、国の将来戦略として、成長することだけが勝ち組ではないということを、そろそろ知った方がいいんじゃないかと。

生き物の世界では、持続性を持つものが、むしろ勝ち組なんですよ。自分が専門とするダニとか昆虫とかはもう数億年もの年月の環境変動をかいくぐって今日まで地球上で繁栄を続けているわけで、まさに生物界の勝ち組なんですよ。恐竜は1億5千万年以上という長い期間繁栄したものの、隕石の衝突一発で滅んでいなくなってしまったということで、最終的には負け組となってしまった。生物にとって肝心なことは、どれだけ長く遺伝子が生き残れるかということなんです。そのためには必ずしも生産(繁殖)効率の最大化が最適解になるとは限らない。

例えば、アリの世界では、多くの種の巣の中に全く働かない働きアリが20%くらいいるということが観察されています。ダーウィンの進化論=ダーウィニズムからすると、全個体が一生懸命働いている巣の方がたくさん餌を取って勝ち組になるはずで、餌の取り分が少ない働かないアリがいる集団の方が負け組になって、最終的にそんな怠け者を生み出す巣を作る系統は淘汰されていなくなるというのが従来の自然淘汰の流れなのに、なんでそうならないのか。でもそれも冷静に考えると、やはり長期的に見て、環境変動があるから、必ずしも労働生産性最大化だけでは残れないということなんだよね。
巣内に変な病気が急に流行したりすれば、巣内の清掃や幼虫の世話という新たな労働荷重がかかるし、あるいは異常気象で餌が足りなくなったりしたら、さらに採餌のために行動範囲を広げなくてはならなくなるし、そんな時、全員がフル稼働していた巣だと、働き蟻たちは疲弊して、労働力不足に陥り、容易に巣が崩壊してしまうことになる。だけど、一定割合、働かないチームを維持している巣は、こうした異常事態になるとその働かないチームが働くチームのヘルプ要員となって労働を補助し、異常事態を乗り切ることができる。要は糊代だよね。
だから、持続した長い期間の環境変動の中で、結果的に働かないアリがいる巣の方が長持ちするという淘汰が働いている。つまり自然界では持続性という形質にも淘汰が働いていることを意味する。このことは我々、人間社会にも重要な示唆を与えてくれている。人間社会も生産効率最大化の競争ばかりではなくて、持続性確保のための「余裕」を維持する戦略を採らないとだめだろうということをそろそろ考えなくてはいけないし、同時に、持続性を保つためには、多様性、つまりいろんな個性や才能が重要だということも知らなくてはいけない。

そもそも人間という生き物自体、弱い生き物であるが故に、いろいろな才能が集まることで、知恵を出し合って、技術発展というものを駆使しながら自然環境と対決して、ここまで繁栄しているということがあるから、逆に言うと、実は人間という生き物ほど多様性が高い生き物っていないんだと思うんですよね。
いろいろな性格のものが、いろいろな個性を尊重して、助け合って生きる。動物だったら、足が遅いものは食べられて死んでしまうという世界でしょ?環境の中で弱いとされるものは、もうその時点でアウトとなってしまう。
でも、人間の場合はそうではなくて、力が弱くても、すごく頭がいい人がいたりとか、あるいは走るのは苦手だけど手先の器用な人がいたりとか、そういういろいろな才能をもつ人がいることをお互いに認知して、支え合って生きていく、そんなコミュニティを創ってきたことでこの地球上で生き残ることができたという歴史があるので、多様性が高い生き物だと言えるんじゃないかと。だから人間は自身の集団がもつ多様性をもっと理解した方がいい。

グローバル化以降、現代社会はグローバルスタンダードという画一化を少し目指し過ぎてきたがために、多様性に対するリテラシーが喪失していることの方が問題で、思考回路自体も非常に多様性が低下していて、硬直化している。その端的な一つの事例として、LGBTQについて、子どもも産めない生産性のない集団みたいな発言をされて物議を醸した政策者もいましたが、人間の生産性って、野生動物の如く子どもを産む数だけで生測れるのではなくて、繰り返しになるけれど、人間という生き物は特殊で、文化とか社会があってはじめて生きながらえる生き物であり、文化や社会を発展させるためには、才能の多様性が必要である、と考えれば、子どもを産むことだけが生産性ではなくて、新たな文化や技術といったものを作り出すという能力も重要な生産性になってくる。
そう考えると、LGBTQの人たちにも個性豊かで、才能に溢れている人がたくさんいるわけで、これからの人間社会の発展に貢献するポテンシャルは、むしろ高いと言える。子どもの数だけで生産性を語るということは、実は野生動物以下のレベルの議論であって、そんなレベルで生産性を追求していったら、多分人間は滅びます。繁殖力だけで自然界で生き残ろうとしたら人間なんて簡単に負けるんですよ。

岡本

そうですよね、おもしろい。
今、五箇さんのお話を聞いていて、僕自身もいつも学ぶんですけれど、やはり難しいなと思うのは、日本国内だけで取り組みをやっていても、他国が同じようにベクトルを統一してくれない場合も多いじゃないですか。ここがすごくややこしくしてしまっているんだなと。

五箇

そうそう。究極的にはやはり今の地球環境問題解決の上で、最も大きなハードルは経済格差なんですよ。
いわゆる南北格差や東西対立が一番大きな問題で、このコロナの世界的被害の拡大もそこから始まっていることだし、ウクライナ問題一つとっても、平和・協調へと足並みが揃えられないというところも含めて、経済という部分が一番大きなハードルで、みんなが安心・安全に暮らして、食べるものに困らず、暖をとるに困らずという社会が、世界全体で揃わない限りは、絶対に環境対策の足並みが揃うわけがないですからね。
だから、基本的には経済発展は必要で、環境問題に具体かつ実効的に取り組む上では、世界全体がまず安定経済に入る必要があって、そのためには、この世界的な格差をどうか改善するかということが優先課題となります。そうなってくると、経済先進国が相当な責任もって、ある程度の自腹を切って、経済発展途上の国の人たちが木を切ったり、野生動物を犠牲にしなくても豊かに暮らせる社会をまず確立しないといけない。そこには相当な痛みを伴わざるを得ないですよね。痛みなくしての改革はやはり難しくて、その部分は綺麗ごとでは済まされない所があると思うんですよ。

でも、冷静に考えると、振り返れば、今の日本も、例えば食糧需給問題で、これから食糧難になるぞという時代において、日本の食料自給率はカロリーベースで約39%と言われていて、自律的な食糧生産を考えていかないといけないという話をすると、今の日本の人口を考えて、食料自給率100%なんてできるわけないだろう、みたいな意見が出たりもしますが、そんな発想自体がある意味旧態依然なんですよ。食べている物が、肉とかいわゆる高脂質の、カロリーが高い方向にいっているから、必要とされるカロリーに対する輸入量が大きく見えているだけで、そういう環境負荷の大きな食材から、昔のように、魚やコメや芋中心の食卓へとシフトすれば、輸入にべったり依存しなくても食べていける。そもそもフードロスの問題も特に深刻な国になってるわけで、そう考えれば、食糧自給の問題も、必ずしも過剰な我慢が伴う無理難題を言っているわけではなく、まずは無駄遣いから見直そうよいう話なんだよね、結局は。

岡本

そうですよね。好きな物ばかり食べてるわけですからね。

五箇

今の暮らしが当たり前だと考えているから、変容は大変だと思うんだけれど、冷静に考えると、そういう「余剰」なところから見直せば、それを苦痛とするかどうかは別としても、無駄なところを省いてけば、意外と上手くいくところもたくさんあるんじゃないかと思考を変えてみる。
そもそも、日本人の身体自体も、日本という環境における食文化で進化してるわけではないから、現実として、肉や脂質ばかり食べている社会が、成人病を含めて、健康寿命という部分に大きなダメージを与えて、それが結局、社会保障制度という部分に大きな負担をかけて、国の財力にも負担がかかっているということを考えれば、食生活から見直した方がよっぽど国としても豊かになるとも考えられるわけです、生態学的にもね。
地域性、固有性という観点からも一つ一つ生活スタイルを見直していった方が具体な解決につながる話もあると思うんですよね。

国が成長・発展した現代では、
個性や多様性を尊重できる社会への転換期を迎えていると考えて、
教育のあり方も議論していくべきなんじゃないかなと思います。

岡本

いや、すごいですね。生物多様性がこんなに社会全体の問題の勉強になるって。五箇さんと話す度に、僕はそれをいつも感じます。
こういう、五箇さんの研究とか、一つの問題が大きく広がって帰結していく視点とか、今、五箇さんの後ろ側に、ご自身で描かれた絵がずらっと飾られていますが、そのバックグラウンドには、すごくアーティスティックなものが流れているんだろうなと感じていまして。

五箇

研究というのは、基本的に、アートというか、観察をして、データを取って、それを絵にするとか論文にするという流れとはアートと一緒なので、アーティスティックな才能は研究にも通じるところがあるんじゃないかと思います。

岡本

感性ですね!

五箇

そうそう。感性。もう絶対的にセンスって大事だと思う。(決して自分がそこまでハイセンスだなんて烏滸がましく思ったりはしていませんが ※五箇先生追記)
過去の偉大なる研究者たちも、なんだかんだいって少し変わっていて、センスがぶっ飛んでいて、変な趣味もたくさん持っていたりするんだよね。そういうのが全くなく、研究オンリーていうのも立派だけど、絵を描いたりとか、マラソンが好きだったりとか、いろいろなことにも興味を持ってトライする、そんな人間性豊かな人の方が研究も面白くなる気がします。

※ここから、しばらく、五箇さんが出演されているテレビ番組の話、その出演でSNSのトレンド入りをした話、研究室の怪獣の話などで盛り上がります。
インタビューをした会議室は、五箇さんご自身が描かれたダニや昆虫の絵のギャラリーになっており、研究室には、怪獣を中心としたフィギュアがずらりと並んで(埋め尽くされて)いて、さながら博物館。
この感性の塊な状況を文字では伝えきれないのが悩ましいですが、そういう前提で引き続きお楽しみください。
(編集者より)

岡本

五箇さんの、そのアーティスティックな感覚というのは、ご自身で振り返ってみて、どのように養われたと思いますか?

五箇

母親が油絵を描いていたので、大きなキャンバスがいつも家にあって、休日とかに母親が油絵を描いていたのを傍で見ていたので、自分も小さい頃から真似して絵を描いたりとかしていたので、いつの間にか描くことが好きになってた。あと怪獣がとにかく好きで、怪獣の漫画とか絵を描くのも好きだったんですよね。暇さえあれば、お絵かき?落書きしてたね。小学校のころは、授業中もずっと教科書に落書きしててね、授業も聞かずに(笑)。
そんなことばかりしていたんだけれど、落書きの描画対象として虫とかザリガニとかカナヘビとか小動物がすごくおもしろくて、そういったクリーチャーの人間とは違うかたちの異質性という部分、多様性だよね、そういったものに対してすごくおもしろさを感じていたので、そういうものばかり観察しては、絵を描いたりしていましたね。
あと漫画も好きで、本気で漫画家になろうと思って、小学生時代は漫画ばっかり描いてましたね。今でもこうしてダニとか昆虫のCG描いているのも、そんな幼少期の環境もあっただろうし、遺伝子も影響してるのかもね。

岡本

学校で落書きをしていたという五箇少年は、きっと今見てもクリエイティブに物事を考えていたんだろうなと思うのですが、そういう異才?こういうと申し訳ないのですが、異才の極致の方だと思っていまして…。

五箇

いやいや、変態ですよ(笑)。完全に異端児。たぶん今この研究所においても、皆さん、変なやつだな、扱いにくいわぁ、と思ってると思うよ。業界的には外れ値な人間だよね(笑)。

岡本

いえいえ(笑)。そんな極致の五箇少年を育てていくために、学校はどのように対応されていたんですか?

五箇

そう、そこなんだよね。今、丁度放送されているある朝の連続ドラマの中で、なかなか学校でなじめなかった主人公が、長崎の五島に渡って、そこに住むお婆ちゃんとか島の人に、色々と教えてもらいながら成長して、そこにまた、全く学校になじめないけれど非常に記憶力がいい子がホームステイに来てというストーリーがあるんだけれど、それはすごく大事なシークエンスだなと思っていてね。
自分自身も、正直、学校に行くのはすごく嫌だったんですよ。全然楽しくないというか、集団生活自体は全然馴染めなくて、マニアックな世界に閉じこもり、オタクだったし、体も小さかったし、そんなに力も強くなかったから、どちらかというといじめられるほうのサイドにいたしね。しかも当時の昭和の時代の学校なんて、給食は全員で残さず食べましょうとか。掃除はみんなでやりましょうみたいな、もう集団ありきな感じで、何をするにしても、集団で画一的にやらなければいけないという世界で動いているのがすごく面倒くさくて嫌だったし、多分、そういうことが嫌だと思う子はたくさんいたけれど、半強制的にやらされるわけだよね。そう考えると、その中で逆に大事な才能が失われた子もたくさんいるだろうなと思うこともありますね。

だからそこは難しくて、確かに社会の中で生きていくには、ある程度の適応性・順応性という、いろいろな人となじんでいかなければいけないということもあるけれど、一方で、それが故に、遠慮してしまって、大事な才能が発揮できずにいたりするというのは非常に残念なことだから、できることなら、学校で教えるのは、極端な話、九九と漢字とそれぐらいにして、あとは自由に好きにやらせるとか。
大事なのは、子供たちの中にギフテッドも少数入っているので、そういう卓越した個性をいかに素早く見つけて、その才能を伸ばせるような環境を作るかというのは、おそらく、これからの教育現場ですごく、大事になってくるじゃないのかなと思います。
昔と今の社会はもう環境が違っていて、昔はやはり貧しくて、文字も覚えられないから、そういう寺子屋的なシステムも必要だったんだろうけれど、現代社会においては、これだけインターネットも含めていろいろなツールがある中で、学ぶこと自体はそう困る事がないので、学校の存在は何になるのか、さらに少子化すすむ現代においては、子ども一人ひとりの価値が一層重要になってくる。適材適所にその人間の才能が生かされる社会を構築するために、学校の中で、子どもたちの個性をどう捉えて伸ばしていくかというのが今後の大きな課題になってくるだろうね。

先生方もこれまでそういう教育を受けた経験が豊富というわけではないから、大変だと思います、本当に。
自分自身も学校には行きたくなかったんだよなあと思い起こすと、小学生くらいまでは社会で必要なこと、九九と漢字とか社会で必要なことを最低限覚えられればいいじゃないかって思うこともあるし、そう考えると、中学を出てすぐに働きに出てもOKみたいな社会があった方が、本来は発展性があるんじゃないかと思ったりもする。働く才能があるなら、早く働いた方がいいことだろうし、でも本当に勉強が好きで、もっともっと学習で才能を伸ばしたい人は、大学まで行けばいいだろうし。みんながみんな大卒でなければいけない必要性はないし、結局また、大学にも格差が生まれてしまうわけで、それが今は仇になって、少子高齢化になってきたら大学を減らさなければいけないとかね。

今、日本の研究能力や学力が国際比較で落ちていることが問題とされているけれど、それは落ちるよなと思うよね、今のままだと。国が成長し発展した現代において、やはり、個性や多様性といった部分を尊重できる社会への転換期をそろそろ迎えていると考えて、教育のあり方も議論していくべきなんじゃないかなと思います。

岡本

五箇さんと話をさせていただくと、知識があるというのは当然なのですが、伝える力がすごく素晴らしいなと感じます。言語として、自分の言葉で分かりやすく、年齢別にレベル別に伝えてもらえる発信力って、本当に重要ですが、でもそれは、研究者の方々を含め、全員が持っているギフトではないと思っていて、おそらく幼少期から学生時代に経験されてきたものだと思うんですね。
そして、そのような教育を、今、学校でも人為的にやろうとしているんですが、これがなかなか難しい。でもこれはおそらく、率直に言ってしまうと五箇さんのような人と直接お話をする機会を持って、話をして伝えることっておもしろいなとか、実際に体験した方が、理解できると思うんですよね。

五箇

もちろん全員が話し上手になる必要もないし、それが本当に苦手という人も、そういうセンスとはまた違う形で才能を発揮するというトレードオフしている人もいるだろうし、本当は喋りたいのに喋れないという人もいるだろうしね。
実際、自分自身もね、小学校時代は学校では一言も口をきかない人だったからね。

岡本

本当ですか!?

五箇

 

今とは全く逆で、全く喋らない人間だったんだよね。それはなぜかというと、学校で話していてもおもしろくないし、おもしろがってもらえるわけでもないし、先ほどの話のようにちょっと異端、一般から見れば変わり者だったから、好きな物の方向性が普通とはちょっと違っていたというのもあってね。
でも、住んでる街のプラモデル屋に居場所があってね、そこにいるプラモデル・アートの達人の店主のおじさんが、プラモ作りを教えてくれながら話相手になってくれて、あと店に出入りする高学年の学生さんや大人たちともよく話してた。そこでは、すごく饒舌だった(笑)。普通の小学生とは少し違う趣味の世界でコミュニケーションを楽しんでいた。そう考えると、自分みたいに学校で喋りたくても喋れないという子供もいるかもしれないので、気楽に言いたいことを喋れる場をどう作るかというのも、すごく大事になってくだろうね。
先生自体にも、そういうセンスが必要になってくるかなと思いますね。経験上、夏休みや冬休みの読書感想文の宿題とか、何かの感想をまとめて発表会をやりましょうとか、そういうのはやめてほしかったなぁと今は思う・・・。自分で好きなテーマで喋る分にはいいけれど、話すテーマを上からいちいち押し付けられると全然おもしろくないですからね。
そういう教育現場における画一的なコミュニケーション指導が、かえって、人前で喋ることがなかなかできないという子を、ますます喋れなくしてしまうかもしれず、いろいろなタイプの子供がいるんだということを前提に、喋る場というのかな、そういったシチュエーションをどう提供するかということが大事になってくると思います。

岡本

五箇さんご自身が、自分のことを話すようになった分岐点、一番大きなターニングポイントはどのあたりからなんですか?

五箇

大人になってから高校の同窓会なんかに行っても、こんなに喋るやつだと思わなかったって言われているということは、小学校どころか高校行ってもあまり喋ってなかったみたいね。大学もね、ずっとバイクに乗って単独でツーリングしてるから、むしろ無言の時間の方が多いよね(笑)。いつからだろうね、不思議だよね(笑)。
でも小学生時代も高校時代も大学時代も喋るところでは喋っていたし、喋らないときは全然喋らないというような濃淡があったのかな。

岡本

おもしろいですね。もうなんだか、一人多様性ですね(笑)。

五箇

そうね。一人多様性。表裏が激しいんだよ(笑)。
でも、そんな中でも、人前で喋ることに自信を持つようになったのは、卒論の発表会の時に意外とウケたことだったかな。思い切ってバーッと台本なしで喋ったら、結構ウケて、ちょっとそこで自信をつけて、あとは社会人になってからは、会社のプレゼンとか。強制的に、部署間のプレゼンのコンペに立たされて、そのプレゼン大会で順位までつけられて、賞品まであるような。そうなるともう、部署の命を受けて臨むわけですから、ものすごいプレッシャーですよね。だから、懸命にネタを仕込んでいって、バカウケ狙うというような努力もする、そういう経験が一つ一つ、自信にも繋がったというのがあると思います。
この研究所に来てからも、学会発表を通じて、やはりおもしろいネタがあって、それをおもしろく発表すれば、必然的に集客力も上がってくるという、そういった中で繰り返していると、自信がどんどんついてきたというのがありましたね。

岡本

なるほど、やはり実経験は重要ですね!

さて、少し話題が変わって、最初の冒頭の話に戻ってくるのですが、今、生物多様性というものは、SDGsも含めて、学校の中でも随分取り上げられるようになったのですが、僕と同じで、最初はどうしても表面上しかできていないところが圧倒的に多い中で、学校で生物多様性を取り組む場合、どういうふうに進めていけばいいでしょうか。

五箇

学校に限らず、例えば自治体や企業とかも含めて、どうしたらいいんですかね、何からはじめればいいですかねと、よく聞かれます。僕は単純に、例えば学校なら、グラウンドに生えてる植物とか、あるいはそこにいる虫とか、身近な足元の自然から見ていって、まずは、何がいるんだろうということを知るというところからスタートしてくださいと言うんです。

要は、生物多様性って、ローカリティの総体として成立しており、地域ごとに異なる環境があって、地域ごとに独自の生物がいるという、その塊が生物多様性だから、まずその地域における自然といったものを知るということが大事なんだと思うのです。まずそこから、へえ、近くにこんなものが生きているんだ、というような発見から始めて、なおかつ、その中には、変わった外来種も見つかるかもしれないし、新種が見つかることだってあるかもしれない。さらに、そんな観察からさらに遡って、昔はこんな風景だったんだとか、昔はこんな生き物がいたんだとか、地域の環境や生物多様性の歴史を知ることで、今の環境というものはどう変遷してきたかとか、そういうことを地域レベルでまず知っていくという、足元から知ろうというところが大事かなと思っていますね。

そういう行動から始めればとっつきやすいし、実際に自分の目で見られるというのもあるし、具体に始めることができるでしょ。それをだんだん拡張していけば、あれ?こっちにはいたのに、あっちにはいないねと、あるいは、あっちにいるのに、ここにはいないというような、地域の異質性みたいなものを、行く先々で気にするようになって、そういった観察眼はどんどん身に着けていくということがまず生物多様性を認知する上で大事なのかなと思います。

岡本

最初にお話されてたように、人間って、自分事になって初めて気づくものが多いと思うので、そういう普通の原体験、自分の周りにどんなものがいるのかというところから知っていくことは、すごく大きいんですね。

五箇

うん。そこは大事でね、そこにいる生き物だけではなくて、その地域における文化とか社会とかも含めて織りなされる歴史を知ることで、地域における環境というものの総体、つまり、自分たち人間も含めて、環境の成り立ちを知るということが大事です。だから、自然だから自然だけを見るのではなくて、自然からその上にある社会や文化といったものを知ることが大事で、例えば文化一つとっても、地域ごとに祭りごととか、農林水産も含めて、第一次産業の形態も違っていると思うので、その繋がりを知ることで、そうか、それでうちの県はこういうものがの一つ名物になっていたんだとか、そういうつながりを知るということが大事なんです。

生き物の世界も、生き物だけで見るのではなくて、生き物と人間のつながりというのを見ていかなければいけない。その中で、自分たちの生活というものは、実はそんなつながりの中で作られてきているんだということを知るということもすごく大事だし、そういうことを知らないとローカリティはて守れない。基本的には、まずはローカリティを守らなければ多様性は維持できないということを知る。
そして、生き物だけじゃなくて、文化や経済も含めて、地域の環境や社会を自律的に維持していくということが、最終的に持続的社会につながることを知る。
それを知らずして、画一的に、グローバル経済、あるいは首都集中型の経済というのを回してきたから、今みたいに地域がどんどん衰退するわけで、地域のことをもっと知り、地域を愛する心というものを芽生えさせることから社会の変容が始められると思うのです。

岡本

本当に、何度も言ってしまうのですが、五箇さんと話していると、いかに社会学もちゃんと知って、社会的な結びつきの中で、自分たちの領域を見るかっていうのが重要だと思います。

五箇

それは本当に大事で、基本ですね。我々生物学者は、生き物も好きだし、非常におもしろいから、生き物を観察・調査しているわけだけど、自分なんかは、一番好きなのはやはり人間なんだと思います。一番興味があるのは、人間であり、人間社会であるということ。
それがないと、環境科学というものはできないだろうなぁ、と思うこともあって。やはり、人間を動かさないことには環境を変えられないので、その部分では、生物学という世界においても、生き物好きが生物学者になるという固定観念からは脱却しなくてはいけないかも。
たとえば高校以降の教育では、専攻を理系・文系に結構綺麗に分けちゃっているけど、でも、本当はすべての学問は繋がっていることだから、一通り全部やっておくほうが、専門分野の理解が深まるし、本当は分けること自体おかしいと。実際、理系に進んだところで、文学的な才能がなかったら、いい論文は書けないわけだし、逆に文系に進んでも、経済とかそういった部分では、統計は必然であったりするわけだし、そういうことを考えるとね、社会においてはどちらの学術知識も必要とされるものだから、学問というものを分けて偏らせることはしてはいけないんじゃないかな。
あと、特に生物を含めて、自然科学なんていうものは、やはり感性、先ほど話したように、観察して、一つの感覚として体験することが大事だから、特に初等教育においては、図画工作と同じように好きに観察させて、好きに絵を書かせていたほうが、本当にいいと思う。教科書で習うことではないんだと思う。

岡本

それは本当に、型にはめすぎというのはありますよね。みんな同じように画一的にしなくてはいけないと。でも多様性が大切ですって言われると、言っていることが矛盾しはじめますよね。

五箇

そういうことですね。

岡本

本当ですね。
では最後に、先ほど教育についても少し触れていただいたのですが、五箇さんから見て、今後のこういう混沌とした社会において、次の世代のイノベーターを育てていく学校の現場からすると、先ほどおっしゃっていたように、自由にやらせればというのももちろん分かるのですが、それでも敢えて、学校というフレームをどう変えていくかという目で見ると、悩んでいる先生方もたくさんいらっしゃると思うんですよね。そういう先生方にこうしていけばいいんじゃないというメッセージがあれば教えていただきたいです。

五箇

まあ、学校は学校で、文科省直轄の教育機関として、文科省のお達しの中でしか動けないわけだから、自分もあまり派手にやってくれという立場にはありませんが、そういった中でも、先生なりに子どもたちに体験させたい、できるだけ体験させるというチャンスを、どうにか時間を作れるようにうまく工夫はしていただきたいし、おそらくその方が、先生にとってもハッピーなんだろうと思いますね。やりがいもあるしね。
教育指針だなんだと、いろいろとトップダウンでくる中では、そういった部分に、ある程度は従いながら、うまく自分自身の教育の個性といものを出せるというようなところが、職場環境にあるといいですね、っていう他人事みたいなことしか言えなくて(笑)。
先生の中にも外れ値になる人材が少しはいてくれないと、なかなか突破口が開けないかもしれない。我々が想像する以上に、なかなか教育現場のハードルは高いというのはお察しします。友人も何人か学校の先生をやっているけれど、一番大変そうですよ。我々の職業から見たら百倍は大変、本当に。枠組みという部分をブレイクスルーするのはなかなか難しいと思うんだけれども、でも、うまく、自分がやりたいと思うようなことを、試しでいいからやってみるというのが一番大事なんじゃないですかね。
今まで通りにやっていたら何も変わらないわけだし。コロナ禍でも、問題に対応したりだとか、行事も潰さなきゃいけないという中で、ずいぶん苦労されたと思うんですけれども、なんとかここまで乗り切ってきたのもひとえに現場での創意工夫があったことと思うし、これを一つの糧として、これからの時代どう教育を発展させればいいかということをいろいろと考えてみるのは素晴らしいことだと思いますね。

岡本

本当に、今から学校の中で、五箇さんのように、専門家でありながら、アーティストでもある、イノベーターが、どんどん輩出できたらいいなと思います。 本日は本当にありがとうございました!

Today’s Expert

五箇 公一 GOKA Koichi 

国立環境研究所 生態リスク評価・対策研究室 室長
保全生態学者 農学博士

1990 年、京都大学大学院修士課程修了。同年宇部興産株式会社入社。
1996 年、博士号取得。同年 12 月から国立環境研究所に転じ、 現在は生態リスク評価・対策研究室室長。専門は保全生態学、農薬科学、ダニ学。ヒアリなどの外来生物防除、ネオニコチノイド農薬などの農薬リスク管理、および新型コロナを含む人獣共通感染症対策など、様々な生態リスク研究を通じて、生物多様性と人間社会の関わり方および持続性について模索している。
著書に『クワガタムシが語る生物多様性』(集英社)、『終わりなき侵略者との闘い~増え続ける外来生物』(小学館)、『これからの時代を生き抜くための生物学入門』(辰巳出版)など。
国や自治体の政策にかかる多数の委員会および大学の非常勤講師を勤めるとともに、テレビや新聞などメディアを通じて環境科学の普及啓発に力を入れている。

Interviewer

岡本 弘毅 OKAMOTO Koki

教育のソリューションカンパニー、株式会社エデュソル 代表取締役。
特定非営利活動法人子ども大学水戸 理事長。
一般社団法人ロボッチャ協会 代表理事。
世界に羽ばたく「倭僑」の育成のため、従来の教育だけではなく、STEAM教育やSDG’s教育(ESD)、グローバル教育を中心に、3歳から社会人までの幅広い年齢にあわせた、様々な教育プログラムを提供している。また、子どものための大学を設立し、累計10,000人を超える学びの場を提供している。 2020年、株式会社電通、株式会社TBSホールディングスとともに、JVとして株式会社スコップを設立、実践的想像力を育むオンラインスクールSCHOP SCHOOLを開校。